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東京地方裁判所 平成元年(ワ)16329号 判決

原告

金山芳子こと

金判令

右訴訟代理人弁護士

成田茂

成毛由和

狐塚鉄世

被告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

新井毅俊

主文

一  被告は、原告に対し、金五〇万円及びこれに対する平成元年一二月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、五億円及びこれに対する昭和五九年一二月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  原告は、別紙物件目録記載の土地(以下「本件土地」という。)の所有者である旨主張して、訴外小林雄(以下「小林」という。)に対し、弁護士である被告に訴訟委任して本件土地の所有権確認及び所有権移転登記手続請求訴訟を提起し、第一審において勝訴したが、控訴審において敗訴した。そのため、原告は、上告審における訴訟遂行についても被告に委任したが、被告が、上告理由書を提出期間内に提出しなかったため、右上告は却下され、原告敗訴の控訴審判決が確定するに至った。

本件は、右控訴審の判決に違法の点があり、上告審において破棄される可能性が極めて高く、原告勝訴の判決が言い渡される可能性があったのに、被告の職務懈怠により、原告はその機会を奪われ、少なくとも約九億円の財産的損害及び多大な精神的損害を被ったとして、債務不履行に基づき、財産的損害の一部請求として五億円、予備的に、精神的損害として右金員のうち相当額の損害金及び右各金員に対する上告却下決定後の昭和五九年一二月一四日以降支払ずみまでの遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  当事者間に争いのない事実

1  被告は、東京弁護士会所属の弁護士である。

2  原告は、本件土地の所有者である旨主張して、昭和四九年三月一三日、小林に対して本件土地の所有権確認及び所有権移転登記手続を、訴外横須賀信用金庫外三名に対して抵当権設定登記の抹消登記手続をそれぞれ求める訴えを東京地方裁判所に提起した(同裁判所同年(ワ)第一九〇八号所有権確認等請求事件)。その後、右事件は横浜地方裁判所横須賀支部へ移送された(同支部同年(ワ)第一三八号土地所有権確認等請求事件。以下「前訴第一審」という。)。

3  2に先立ち、原告は、被告に対し、訴訟委任し、被告はこれを受任した。

4  前訴第一審判決(甲一の三〇丁)は、昭和五二年七月二七日に言い渡された。同判決は、本件土地は、原告が購入したものであり、その所有者は原告である旨認定し、小林との関係においては原告全面勝訴という内容であった。

5  小林は、昭和五二年八月八日、右判決に対して東京高等裁判所に控訴を申し立てた(東京高等裁判所同年(ネ)第一九五〇号土地所有権確認等請求控訴事件)が、原告も、右控訴審において、予備的に請求の趣旨及び原因を追加主張して附帯控訴をした(同裁判所同年(ネ)第一三六〇号。以下、右両控訴事件を併せて「前訴控訴事件」という。)。原告は、被告に対し、前訴控訴事件についても訴訟委任し、被告はこれを受任した。

6  前訴控訴事件について、昭和五九年八月三〇日、判決(甲一の六三一丁。以下「二審判決」という。)が言い渡されたが、同判決は、大要、① 昭和四一年一二月一五日に本件土地を前所有者の訴外三信商事株式会社から購入したのは、原告ではなく小林であったこと、② 小林は、①の売買契約後間もなく、原告との間で、本件土地の売買代金にあてるために小林が訴外逗子信用組合から借り入れた金員全額及び本件土地の公租公課等の全額の弁済を原告から受けたときは、本件土地の所有権を原告に譲渡する旨の契約(以下「本件譲渡契約」という。)を締結したこと、③ 小林は、原告が②の金員の一部を弁済したのみで、その余の弁済をしないため、本件譲渡契約を同五七年一〇月一九日に解除したことを認定して、前訴第一審判決中、小林に関する部分を取り消し、原告の小林に対する請求(附帯請求にかかる部分を含む。)を棄却した。

7  原告は、二審判決を不服として上告することとし、被告に対して、その旨の訴訟委任をし、被告はこれを受任した。

8  被告は、7の訴訟委任契約に基づき、昭和五九年九月一二日、東京高等裁判所に上告状を提出して上告の申立て(以下「本件上告」という。)をした。同裁判所からの上告受理通知書は同月一九日に被告に送達された。したがって、被告は、原告に対し、同日から五〇日の上告理由書提出期間内(即ち、その最終日は同年一一月八日)に、上告理由書を同裁判所へ提出して、右提出期間を徒過しないように注意すべき委任契約上の義務を負担することとなった。

9  しかし、被告は、右注意義務に違反して右提出期間の最終日を誤り、右期間内に東京高等裁判所に上告理由書を提出しなかった。そのため、昭和五九年一二月一一日、同裁判所において本件上告は却下され、二審判決が確定することとなった。

10  原告及び被告は、昭和六〇年一月一〇日、被告の事務所において、訴外河野聖こと河明喆(以下「河」という。)及び同野田光郎(以下「野田」という。)立会いの下に、① 被告が、原告からの委任に基づき、小林から原告に対する本件土地の明渡請求等に関する仮処分、仮差押、調停事件及び訴訟事件を無料で受任すること、② 原告が、被告に対し、9の上告却下の件について損害賠償請求権を放棄すること、が各記載された「念書」(乙一。以下「本件念書」という。)に署名捺印した。

三  争点

1  二審判決には、上告審において破棄されるべき違法の点があったか否か。

(一) 原告の主張

二審判決には、次のような重大な違法があることが明らかであるから、被告が、上告理由書をその提出期間内に提出していれば、上告審において、原判決が破棄されることは確実であった。

(1) 経験則違反及び採証法則違反

二審判決は、小林が作成した「誓約書」(甲一の一六九丁。以下「本件誓約書」という。)に対する小林の弁解、原告と小林の逗子信用組合に対する各返済金の額、本件土地の公租公課の負担者等につき証拠の評価を誤る過誤を積み重ねた結果、「本件土地の所有者が原告であることを証明する。逗子信用組合よりの二三五〇万円の小林名義の借入れは原告が支払う。」との趣旨の記載がある本件誓約書の文言解釈において、二6①のように、本件土地の購入者は原告ではなく小林である旨、経験則に反する事実認定をするという重大な過誤を犯している。

(2) 審理不尽、理由不備の違法

二審判決には、審理不尽、理由不備の違法がある。例えば、① 二審判決が、本件誓約書のうち、本件土地の所有者が原告であることを証明するとの部分は真実でないと認定説示した部分について、その理由の記載がない。また、② 原告と小林の逗子信用組合に対する各返済金の額を認定するうえで重要な間接事実である原告の資力について、原告には、いわゆる表帳簿により認められる収入以外に、税金を免れるため隠匿していた収入の存在が、いわゆる裏帳簿により明確になったにもかかわらず、原判決は、右裏帳簿につき何らの判示もしていない。

(3) 判断遺脱

原告は、前訴控訴事件において、未払借入金の支払と引換えに本件土地の所有権移転登記手続を求める附帯控訴請求を予備的にしていたところ(甲一の七三七丁ないし七四八丁、昭和五七年九月一四日付け「請求の趣旨及び原因の予備的申立書」)、二審判決は、二6③のように認定して、原告の予備的請求を棄却した。

原告の右予備的請求の主張は、訴訟手続が進行し、基本的契約関係に対する裁判所の判断を当事者が待っている状態の中では、原告の未履行債務の履行提供に等しい評価がされるべきものであるから、これが結論に影響を及ぼすことは明らかである。したがって、この点に何ら触れずに原告の右予備的請求を棄却した二審判決には、判断遺脱の違法がある。

(二) 被告の主張

二審判決には、原告が主張するような違法は存しないから、同判決が、上告審において破棄される可能性は全くなかった。

(1) 経験則違反及び採証法則違反の主張について

本件上告記録(甲一)に照らすと、二審判決の事実認定は経験則に合致したものであり、原告主張のような経験則違反及び採証法則違反の違法は何ら存しない。

(2) 審理不尽、理由不備の違法の主張について

二審判決には、原告主張のような審理不尽、理由不備の違法はない。すなわち、① 二審判決は、本件誓約書の作成理由について判示しており、また、② 仮に、原告に税金の支払を免れるために隠匿していた収入があったとしても、逗子信用組合に対し、原告がいくら弁済したかという点についての事実認定に何ら影響を与えるものではないから、裏帳簿の収入については、そもそも判断する必要はない。

(3) 判断遺脱の主張について

二6③のとおり、本件譲渡契約は、原告の債務不履行により昭和五七年一〇月一九日に解除されたのであるから、右契約の存続を前提とした原告の附帯控訴については、二審判決のように、「その余の点について判断するまでもないから、いずれもこれを棄却」する旨の判示で足りる。

2  仮に、二審判決に違法の点があり、上告審において破棄される見込みがあった場合の、原告に生じた財産的損害の額

(一) 原告の主張

原告が本訴を提起した平成元年一二月一一日の時点における本件土地の時価は一八億円を下らない。そして、二審判決が破棄される可能性は、少なくとも五〇パーセントはあったから、被告の職務懈怠により原告に生じた財産的損害の額は、九億円を下らない。

(二) 被告の主張

原告が本訴を提起した時点における本件土地の時価が一八億円である証拠はなく、また、二審判決が破棄される可能性が五〇パーセントであるという根拠もない。

3  被告の職務懈怠により、原告が上告審の判断を受けることができなかったことにより被った精神的損害に対する慰謝料の額

(一) 原告の主張

原告は、自らの主張の正当性を確信しており、二審判決に対する最高裁判所の判断を受けることを切望していた。したがって、同判決の当否はともかく、原告が、被告の職務懈怠により最高裁判所の判断を受けることができなくなったことにより被った精神的打撃は極めて大きい。また、原告は、被告の職務懈怠により本件上告が却下されて以来、訴訟遂行等を委任した弁護士を心から信頼することができず、多大な精神的苦痛を被っている。

したがって、仮に、原告に生じた財産的損害の額が五億円に満たないとしても、原告は、被告に対し、右金員のうち相当額の慰謝料請求権を有しているというべきである。

(二) 被告の主張

三1(二)で述べたとおり、二審判決が上告審で破棄される見込みはなかったから、原告に精神的打撃が生じる余地はない。

仮に、原告が被告に対し、慰謝料請求権を有しているとしても、被告が、前訴第一審及び前訴控訴事件を通じ約一〇年間原告のために訴訟遂行をしてきたこと、被告は、原告から、上告審の着手金を受領していないこと等を考慮すれば、その額は極めて低額であるというべきである。

4  原、被告間の和解契約の成否

(一) 被告の主張

原告及び被告は、昭和六〇年一月一〇日、本件念書により、二10①及び②を内容とする和解契約(以下「本件和解契約」という。)を締結し、原告は、被告に対し、本件損害賠償請求権を放棄した。したがって、被告には、原告に対する損害賠償義務はない。

(二) 原告の主張

原告は韓国籍であり、本件念書作成当時、日本語を理解する能力が低かったうえ、被告の職務懈怠により引き起こされた上告却下という重大な結果により混乱し、正常な判断能力を失っていたものである。したがって、本件念書により、原告が、本件和解契約を締結する旨の意思表示をしたものということはできない。

5  本件和解契約が、原告の錯誤により無効であるか否か。

(一) 原告の主張

原告は、二審判決につき再審請求をしさえすれば、本件土地の所有権の帰属につき再び小林と実質的に争うことができるものと誤信して、被告との間で本件和解契約を締結し、かつ、その際、被告に対し、その旨表示していたものである。したがって、原告には、本件和解契約につき要素の錯誤があるから、本件和解契約は無効である。

(二) 被告の主張

原告の主張は否認する。被告は、原告に対し、本件念書の作成にあたり、その内容を読み聞かせ、十分に熟慮の機会を与えて原告の署名捺印を得たものであるから、本件和解契約につき、原告に要素の錯誤はない。

6  本件和解契約が、公序良俗に違反する暴利行為であり、無効であるか否か。

(一) 原告の主張

(1) 1(一)で述べたように、上告審において、二審判決が破棄されることは確実であったから、原告が、本件和解契約により放棄した損害賠償請求債権(本件土地の時価相当額)は極めて高額であるのに、被告が右和解契約によって無料で受任することになった原告と小林間の本件土地に関する調停事件、保全事件等は、原判決につき、原告敗訴の結果に既判力が生じている以上、全く無意味、無価値のものである。

(2) しかも、本件念書は、法律の専門家である被告が、原告が日本語を十分に理解しない上、前訴控訴事件における逆転敗訴及び本件上告の却下という事態により混乱していたことに乗じて作成されたものである。

(3) したがって、本件和解契約を原告に締結させたことは、被告の暴利行為であり、公序良俗に違反し無効である。

(二) 被告の主張

(1) 1(二)で述べたように、上告審において、二審判決が破棄される見込みはなかったから、被告の原告に対する責任は、せいぜい迷惑料程度のものである。そして、被告が無料で受任することになった原告と小林間の前記調停事件、保全事件等は、本件和解契約締結当時予想された小林から原告に対する本件土地の明渡訴訟を原告に有利に解決するために必要なものであり、無意味なものではなかった。

(2) また、本件念書作成当時、原告が正常な判断能力を欠いていたことはない。本件念書は、被告が原告に対し、その内容を読み聞かせたうえ、十分に熟慮の機会を与えて、原告の署名捺印を得たものであり、被告が原告の混乱に乗じて作成したものではない。

(3) したがって、本件和解契約は暴利行為にあたらないから、原告の主張は失当である。

第三  争点に対する判断

一  争点1(二審判決に、上告審において破棄されるべき違法の点があったか否か)について

1  経験則違反及び採証法則違反について

二審判決の内容は、第二、二6記載のとおりであり、要するに、その内容は、① 昭和四一年一二月一五日に本件土地を前所有者の三信商事から購入したのは、原告ではなく小林であったこと、② 小林は、①の売買契約後間もなく、原告との間で、本件土地の売買代金にあてるために小林が逗子信用組合から借り入れた金員全額及び本件土地の公租公課等の全額の弁済を原告から受けたときは、本件土地の所有権を原告に譲渡する旨の本件譲渡契約を締結したこと、③ 小林は、原告が②の金員の一部を弁済したのみで、その余の弁済をしないため、本件譲渡契約を同五七年一〇月一九日に解除したことを認定して、前訴第一審判決中、小林に関する部分を取り消し、原告の小林に対する請求(附帯請求にかかる部分を含む。)を棄却したものであるが、右認定判断は、同判決挙示の証拠(甲一)に照らして正当として是認することができ、その過程に所論の違法があるものとは認められない。また、他に、同判決に経験則違反、採証法則違反の違法が存することを認めるに足りる証拠もない。したがって、この点に関する原告の主張は理由がない。

2  理由不備の主張について

証拠(甲一の六四九丁、乙五)によれば、① 二審判決は、その理由中で、本件誓約書につき、「被告は、本件土地買入れ等に関する資金(但し、逗子信用組合よりの借入金二三五〇万円以外の部分)に対する税務署の追求を防ぎ、かつ、被告に妻せつがいるので、万一被告が先に死亡して妻と原告との間で本件土地に関し紛争の生じた場合に原告のため有利な証拠とする目的で、遡らせた日付で、本件土地が原告の土地であることを証明する、逗子信用組合よりの二三五〇万円の被告名義の借入れは原告が支払う旨記載した甲第三号証の書面(本件誓約書)を作成し、これを原告に交付した。右書面の記載中、本件土地が原告の土地であることを証明するとの部分は、真実でない。」旨認定説示していることが認められる。また、② 仮に、原告に、いわゆる裏帳簿により隠匿された収入があったとしても、これによって直ちに、原告が、逗子信用組合に対して弁済した金額の認定を左右するものでもないと解される。そうであるならば、二審判決に原告主張のような審理不尽、理由不備の違法があることを認めるに由なく、この点に関する原告の主張は理由がないことになる。

3  判断遺脱について

証拠(乙五)及び前記争いのない事実によれば、二審判決は、その理由中で、原告の予備的請求原因である本件土地譲渡契約及び原告の小林に対する借入金等の支払義務(先履行義務)の存在について認定判断したうえ、本件土地譲渡契約は、原告の債務不履行を理由として小林によって解除された旨認定し、本件土地譲渡契約が解除された以上、小林には本件土地の所有権移転登記手続をする義務はなぐ、引換給付判決をする余地はないとして、原告の第一次的及び第二次的予備的請求(未払差額金の支払を引換給付とする本件土地についての所有権移転登記手続請求)を棄却したものであることが認められる。そうであるならば、二審判決は、原告の予備的請求原因についても判断を加えているものと認められるから、原判決に所論の判断遺脱の違法は存しない。

なお、原告は、前訴控訴事件において、原告が右各予備的請求の主張をしたことは、とりもなおさず、原告が、小林に対する借入金等の支払義務(先履行義務)の未履行部分につき弁済の提供をしたのと同等に評価されるべきである旨主張するが、独自の見解であって採用することはできない。

4  以上の次第で、二審判決には、法律審である上告審において破棄されるべき違法の点があったことを認めることができず、被告が上告理由書をその提出期間内に提出していれば、二審判決が上告審で破棄される見込みがあったと認めることはできない。

したがって、争点1に関する原告の主張を認めることはできない。

そうであるならば、原告の被告に対する財産的損害のうち金五億円の賠償を求める請求は、争点2(原告に生じた財産的損害の額)について判断するまでもなく、理由がないことになる。

二  争点3(被告が被った精神的損害に対する慰謝料の額)について

1  証拠(乙二一、三二、証人河明喆、同野田光郎、原告本人(一回、二回)、被告本人)、前記当事者間に争いのない事実及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告は、原判決に対する上告審の判断を切望し、弁護士である被告に対し、上告審における訴訟活動を委任した時点で、二審判決につき、上告審においてさらに争えるとの合理的な期待を有するに至り、被告が、上告理由書の提出期間内にその提出を失念することにより本件上告が却下となるというような事態は、原告において全く予想できなかった。

(二)  本件における被告の職務懈怠は、法律専門家たる弁護士として極めて初歩的なミスであり、重過失ともいいうるものであるところ、原告は、被告の職務懈怠により上告が却下されて以来、自己が訴訟遂行等を委任した弁護士を心から信頼することができなくなった。

(三)  一方、被告は、前訴第一審及び同控訴審を通じ、約一〇年間にわたり、原告のために訴訟遂行し、原告から、着手金二〇〇万円及び諸費用の支払を受け取ったのみで、前訴第一審の勝訴に対する成功報酬並びに同控訴事件及び上告審の着手金等は一切受け取っていない。また、被告は、本件上告が却下となった後、原告から、原告と小林との間の調停事件、仮処分事件等を無料で受任し、原告の代理人として活動した。

2 以上認定した各事実に照らせば、被告の職務懈怠によって本件上告が却下されたことにより、原告が被った精神的損害に対する慰謝料の額は、五〇万円と認めるのが相当である。

三  争点4(本件和解契約の成否)について

証拠(乙一、一六、二一、三二、証人河明喆、同野田光郎、原告本人(一回、二回)、被告本人)及び前記当事者間に争いのない事実を総合すると、原告と被告の間で、昭和六〇年一月一〇日、被告の法律事務所において、① 被告が、原告の委任に基づき、小林の原告に対する本件土地の明渡請求等に関する仮処分、仮差押、調停事件及び訴訟事件を無料で受任すること、② 原告が、被告に対し、被告が上告理由書を提出期限内に提出しなかった職務懈怠に基づく損害賠償請求権を放棄することを内容とした本件和解契約が締結された事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

四  争点5(本件和解契約の錯誤無効)について

1  証拠(甲六九、八〇、乙一五、一六、二一、三二、証人河明喆、同野田光郎、原告本人(一回、二回)、被告本人)、当事者間に争いのない事実及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の各事実が認められる。右各証拠中、この認定に反する部分は採用することができず、他に、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 原告は、前訴第一審及び同控訴事件において、一貫して本件土地の真の所有者は自分であると主張し、本件上告却下決定の送達(甲一の一三九九丁)後である昭和五九年一二月二六日にも、被告に対し、本件土地の所有者は自分である趣旨を電話で依然として強く主張するなど、本件土地に対する強い権利主張の態度を示していた。

(二) ところで、原告は、韓国籍であり、本件念書に署名捺印した当時、日本語を読み書きする能力は極めて低かった。また、原告は、右当時、法的な知識がほとんどなく、たとえ二審判決について再審請求をしたとしても、再審事由が限られていて、その請求が認められる可能性は極めて低いということを知らなかったばかりでなく、むしろ再審請求をすれば、前訴事件について、適法な上告申立てがあった場合と同様に最高裁判所の審理を受けられるものと誤信していた。

(三) そして、本件上告が却下となった後の昭和六〇年一月初めころ、原告は河の自宅において、河及び野田と善後策を協議した際、小林から本件土地を取り返すには再審請求しかない旨のアドバイスを野田から受け、次いで同月一〇日、被告の法律事務所において、本件念書に署名捺印するに先立ち、野田から、被告の面前で、再審請求に対して前記のような期待を抱かせるような話を聞いたが、被告は、野田の右発言をあえて打ち消すような発言はせず、再審請求をしても、その請求が認められる可能性が極めて低く原告の本件土地に対する権利主張がとおる見込みがほとんどないことまでは説明しなかった。そのため、原告は、本件念書は、原告が、被告に対し、再審請求を委任する趣旨をも含む書面であり、被告に対する損害賠償請求権を放棄しても、再審請求によって、適法な上告申立てがあった場合と同様の訴訟活動を被告に期待することができるものと誤信し、これに署名捺印した。しかし、実際は、右念書には被告に対し再審請求を委任する趣旨の記載はなく、また、原告がその後、他の弁護士らに委任してした再審の訴え(東京高等裁判所平成元年(ム)第四五号事件)も判決により却下された(甲八〇)。

2 以上認定の事実によると、原告は、本件和解契約を締結する際、二審判決に対する再審請求をしさえすれば、適法な上告申立てがあった場合と同様の訴訟活動を被告に期待することができるものと誤信して、被告に対する損害賠償請求権を放棄する旨を記した本件念書に署名捺印したものであり、その趣旨は、被告に対し、黙示的に表示されていたものと認められるから、原告の本件和解契約締結の意思表示には要素の錯誤があると認められる。

3 そうであるならば、本件和解契約は原告の錯誤により無効であるといわざるを得ない。

第四  結論

以上のとおりであるから、その余の争点6について判断するまでもなく、原告の請求は、被告に対し五〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年一二月一九日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があり、その余の請求は理由がないことになる。なお、本件訴訟は、債務不履行に基づく損害賠償請求であるから、遅延損害金の起算日は右のとおりとなる。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官河野信夫 裁判官角隆博 裁判官田中一彦)

別紙物件目録〈省略〉

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